三部・二部・一部を経験した僕からみんなへ 秋本勇治
1992年から17年ほど千葉大学ラクロス部に関わることができました。
この時間が無かったら、僕の人生は全く違うものになったと思います。
92年の春、西千葉駅前でクロスを持っていた初代の上田君に声をかけて練習に飛び入りし、その後は大野君のアパートで食事会にも参加しました。
あの日の衝動的行動から全ては始まったかと思うと、人生とは不思議なものです。
94年の準加盟と東北遠征、95年の正式加盟とリーグ戦初参加、他大学の学生ながら見続けていたので、これも大事な想い出です。
95年のリーグ戦では同時に初参加した他の2校が全敗で終えたのに対し、千葉大学は2勝を挙げ入替戦に進みました。今思えば凄いことですね。
96年から千葉大学に名を連ねることになりましたが、押しかけコーチだったので当時のメンバーは迷惑だったと思います。
このときも出会いと同様、衝動的な行動でした。若いって怖いですね。
リーグ戦は順調に勝ち星を重ね入替戦に進出。
コーチをしたかったのは、今まで認められなかった僕の考えを実証したいという思いがあったので、何としても勝ちたかった。(自分本位で良くないコーチですね)
そして勝利し、1年で三部から二部へ。「俺にできないことはない!」くらいに思っていました。
が、97年、98年は早々と壁にぶち当たります。
一つ、二つは勝てるものの、上位校には歯が立ちません。
戦い方のレベルアップと個人技術の底上げ、これを両立すべく練習や勧誘を模索していました。思いつきの馬鹿な練習メニューを強要したこともあったし、受け売りの言葉を偉そうに喋っていたこともありました。
そして恐怖の99年。今まで一部・二部は8校2ブロック制だったのを、翌年から6校2ブロック制にすることになりました(今も続く形式は2000年からですね)。
計算すれば判りますが、二部は半分が三部へ降格することになります!
この年は16校を三ブロックに分けて戦う変則方式。迎えた最終戦は、互いにここまで2勝2敗で、負けた方は自動降格というものでした。
そして3Qを終えて2点リードされる劣勢。
でも、何故か落ち着いていたのを憶えています。
4Qが始まると連続得点、そして逆転。残り5分で2点リードし逃げ切りが頭によぎったとき、まさかの連続ファールで3マンダウン。
そして直後にボールを奪い、そのまま得点。試合の空気が一瞬、一瞬で変わる本当に濃密な時間でした。
この3マンダウンのときに申請したタイムアウト、僕のラクロス人生で最高のタイミングとプレー指示だったと自画自賛しておきます。(詳しく書くと、原稿用紙10枚にはなるので割愛)
この99年の最終戦で二部に残ったことが、2000年に大きく響きます。
先ずは夏のルネサンスカップ。
初めて予選を勝ち抜き、準決勝も勝利。決勝の下馬評は相手が絶対的優位で、消化試合のように思われていました。(おそらく被害妄想でしょう)
が、勝利し初のタイトル獲得。そして大会初の二部リーグ所属校の優勝でした。
何が変わったって、次の日から練習試合の申し込みが殺到!
それまで一部リーグ所属校と練習試合を組むのは難しかったので、「よーし、返り討ちにしてくれる」と調子に乗って三週連続で一部リーグ所属校と練習試合。
ここで勢いを増してリーグ戦に突入するつもりでした。
結果、三連敗。どの試合も完敗。ぐうの音も出ないとは、このことでした。
一部は甘くない・・と思いを新たにしたのが幸いだったかもです。ここで負けてなかったら勘違いしたまま開幕を迎えていたでしょう。
改心して臨んだリーグ戦は順調に勝ち星を重ね、全勝で入替戦へ。
相手も決まり、準備も万端。何度も試合展開を予想し、悪い状況を何パターンも考えて、それでも勝てる自信がありました。
そして入替戦前日、僕は一睡もできませんでした。
緊張で眠れないという人生で初めての体験。後に結婚相手となる人の両親に挨拶する前日も、披露宴前日も熟睡できた僕が眠れない。
そのまま始発電車で西千葉へ向かい、誰もいないグランドで小石を拾い、トンボで地面をならしていました。
試合が始まると、そこからは無我夢中。勝利の瞬間は本当に嬉しくて、嬉しくて、その気持ちを文章にするのは今でも難しいです。
どう書いてもしっくりこない。ここの文章は何度も書き直しましたが、上手く書けなかったです。50周年記念までには書けるよう、頑張ります。
日本一になる権利を手に入れ、01年からは夢にまで見た一部リーグ。僕は選手としても経験が無かったので、本当に楽しみでした。そして怖かった。
迎えた開幕戦、会場は葛西臨海球技場でした。これまで何度も通った場所なのに、駅からの距離が凄く遠く感じ、グランドへの階段を上りきると、見慣れた光景の色が違い、口に入ってくる空気に変な味を感じたのを憶えています。そのことを皆に話すと笑っていましたけど、僕は本気で言っていました。
試合が始まった瞬間は憶えています。終わった瞬間も憶えています。
勝ったのも憶えています。けど、途中経過を全く憶えていません。
どんなに思い返しても、一つのプレーも、タイムアウトの申請も思い出せません。
これが一部リーグでのスタートでした。
この年はファイナル4まで進むことができ、周囲から見れば初昇格一年目としては良い結果だったかもしれませんね。
でも、ここで僕は皆に謝らなくてはいけません。
一部リーグに上がるまでは、自分の中でハッキリとしたイメージがありました。
「こうすれば勝てる」「こうすれば一部に上がれる」という、絶対的な自信もありました。
でも、一部に上がったら、どうすれば良いか判らなかった。
日本一になると公言していたものの、その根拠になるものが無かった。
自分の感覚・能力よりも、現実が追い越して行ってしまったのです。
当時はそれでも「俺なら何とかなる」と思い込んでいましたが、これは過信であり妄想でしかなかった。
ここでコーチを交代し、勝てるコーチを呼んでくるべきだった。
僕は育成・運営面に集中し、勝つことについては改めて研鑽を積むべき時期でした。
ここで決断できなかったことが、翌年以降に毎年勝ち星を一つ、二つ失う原因だったと思います。
そうしていれば02年、03年もファイナル4に進め、その経験の蓄積で04年は優勝できた可能性がもう少し上がったはずです。
05年、06年は降格入替戦に回ることも無かったはずです。
当時のメンバーには、本当に申し訳ないことをしてしまった。
07年以降は二部リーグで戦うことになりました。
そして僕はこの頃、仕事で札幌、東京、神戸と転勤を繰り返すことになり、チームを離れることになりました。
二部リーグに降格したことを当時のメンバーには負い目に感じて欲しくはないです。
けど、僕はもっと何かできたはずなのに、できなかった。
今思えば、予想を超えた現実から逃げてしまった弱い自分がいたのです。
当時の僕は自分を客観視できるほど大人になれてなく、とにかく勝ちに飢えていたときの若さも失っていたようにも思います。
これは自分を振り返るとき、忘れてはいけないことです。
でも、全ての時間を通して、大変だったことや悩んだことはあるけど、嫌なことなんて一つもなかったよ。人に嫌な思いをさせてしまったことはあるかもしれませんが・・
良い思い出でばかりです。
久々に卒業生に会うと本当に楽しいし、大人になった皆に感動しています。
最近は僕がチームを離れた後に入学した人たちとも交流でき、刺激を貰っています。
創部から25年、いろいろ変わったことはあるかもしれません。
先日、数年ぶりに西千葉のグランドを訪問しました。人工芝になり、周囲は高いネットで囲まれ、設備は凄く変わっていました。
でも不思議と何の違和感もなく、心地よい空気を感じました。
そのとき、僕の中にある千葉大学ラクロス部は途切れることなく続いているのだと思いました。
久しくグランドに行ってない人、リーグ戦を観てない人、是非足を運んでみてください。
OB会や同期会、行ってみてください。
学生時代に勝った方が多い人も、負けた方が多い人も、行ってみてください。
変わらないもの、新しいもの、いろんなことが見えるはずです。
学生時代には気付かなかったことに、気付けるはずです。
これから先、千葉大学ラクロス部は日本一になることも、三部リーグに所属することもあるかもしれません。
でも、どんなときも、僕の皆を応援する気持ちは変わらないです。
創部から25年、僕に大切なものをいっぱい与えてくれて、ありがとう。
(2017.06 執筆)