No.004 19期 岩井翔太郎「OB会 新事務局長 ご挨拶」

OB会 新事務局長 ご挨拶

お疲れ様です。
19期の岩井翔太郎です。
現在は、社会人クラブチームFALCONSに所属し、ラクロスを続けております。

さて、7/1(土)に開催されたOB総会をもって、事務局長に就任致しました。
微力ではございますが、千葉大学男子ラクロス部の発展に全力を尽くす所存です。
前任者同様、格別のご指導ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。
まずは略儀ながら書中にてご挨拶申し上げます。

今年のOB事務局は、「繋がり」を強く意識しております。
今年で千葉大学男子ラクロス部は創部25年周年を迎えました。私が現役4年生のとき、20周年記念に参加したことを今でも覚えています。そこから早いもので5年が経過致しました。私がプレーしていた学生時代の4年間も、今では「歴史」となっております。

ラクロスというスポーツ、そして千葉大学男子ラクロス部は、今後、もの凄いスピードで変化・成長していくと思います。ラクロスがオリンピック競技となり、プロリーグが出来て、学生リーグが6大学野球のような盛り上がりを見せる日が、もしかしたら来るかもしれません。

そして、千葉大学男子ラクロス部もその強烈な変化に、対応していく必要があります。
既に、私が所属していた5年前から多くの変化をしております。

変化していく中で、大切にしなければいけないのは、「創部以来、諸先輩方が試行錯誤し、成功・失敗を繰り返しながらラクロス部を繋げて頂いたからこそ今がある」ということです。

ラクロスが変化したとしても、千葉大学男子ラクロス部の原点は変わらないと思います。
1期の先輩から踏襲されたDNAを今後も大切にしていける部活であってくれたらいいなと思っております。

このことを胸に、今年はOB事務局として、現役とOBを繋げるイベントを実施していきたいと思っております。
是非、積極的に参加して頂きたく存じます。

最後に、私は千葉大学男子ラクロス部が大好きです。
事務局長としてOBを盛り上げること、そして、プレーヤーとしてもFALCONSでの経験を還元することで千葉大学男子ラクロス部に少しでも貢献出来るよう努めて参ります。

今後ともよろしくお願い致します。

 

(2017.07 執筆)

No. 003 14期 吉野悟「OB会事務局長として、そしてこれからのOB会へ」

< 2017年度OB総会・創部25周年記念懇親会 直前号 >

 

OB会事務局長として、そしてこれからのOB会へ

 

千葉大学男子ラクロス部14期OBの吉野悟です。約13年間あるOB会事務局の歴史の中で、約2年間会計を担当した後、約5年間事務局長を務めさせていただきました。

 

  • 事務局加入初期

私は自分から志願して事務局員になったわけではなく、ある日突然事務局からメールが届き、そのメールの会計の欄に知らぬ間に私の名前が書かれていました。「やりたくない。誰かに引き継いでさっさと辞めよう」、当初はそう思っていました。

私が事務局員になった頃はまだ会議も不定期開催で、場所もガストなどで2時間程度話し合うだけでした。

なかなか会計を引き継ぐ人など見つからず2年近く経ったころ事務局長引継ぎの話が出てきて、私が一番適任だ(当時は働いておらず毎回会議に顔は出していたのでそういった意味では確かに適任だったのでしょう)という話になり、後輩に押し付けるのも忍びないので、「自分はとりまとめをするだけで実務は一切行わない」という条件付きで引き受けることにしました。

 

  • 事務局長になってから

私が事務局長になってから大きく変わったことは、(全てが私の提案というわけではありませんが、)事務局の開催を月1の定例開催にして場所も公民館等に移したこと。事務局活動に現役が参加するようになったこと。OB会名義の銀行口座を作り自動引き落としでの会費納入を取り入れたこと、の3点ではないかと思います。

しかし、定例開催にしてはみたものの集まれる人数はなかなか増えず、事務局長になるに当たって条件は出しましたが実際には結構な実務を自分でやっていました。いろいろ新しい取り組みの案は出るのですが、実際に動ける人員がおらず着手できなかったことも多々ありました。

現役が定例会に出席するようになってからは、現役からOB会に対する要望が明確になり、それと同時に現役がOB会の重要性を徐々に理解してくれるようになりました。会費の自動引き落としを導入したことも相まって、卒業生のほとんどは自動引き落としによって会費を納入しており、安定した収入増が見込めるようになりました。

 

  • 事務局のこれから

上記のような人数不足の状態が数年続いておりましたが、昨年から事務局活動に積極的に加わりたいという若手のメンバーが多数集まりました。

私は少ないメンバーでいかに事務局を形式的に整った状態で維持するかということに重点を置いて、人手不足で手が回らない活動は切り捨ててきましたが、活動的なメンバーが増えたことによって新しい支援活動にも着手できるようになってきました。

数年前から案が出ていた現役の進路相談などがその一つです。他にもいろいろな案が新しいメンバーから提案され、これからの事務局は私が事務局長だった頃の保守的な事務局とは違う革新的な事務局になっていくと思います。

 

  • 今後必要なこと

ただ、いくら事務局が変わっても、OBOGの方々の協力無しにはOB会は成立し得ません。私が事務局員になった頃からある課題の一つに、「いかにして離れてしまったOBを引き戻すか」というものがあります。そしてそれは今でも、最も重要な課題の一つだと思っています。

全ての事務局や現役の活動に賛同していただけなくても構いません。「この企画面白そうだな」「久しぶりに様子でも見に行ってみようかな」と少しでも思ったときに、ふらっと足を運んで頂ければ嬉しいです。遠方で直接お越しいただくことが難しくても、メッセージ一つ頂けるだけで励みになります。

千葉大学男子ラクロス部が25周年を迎えたこの年に事務局も大きな節目を迎えることになりますが、これからも現役と事務局へのご支援ご協力をよろしくお願いします。

 

(2017.06 執筆)

No. 001 01期 大野 剛「千葉大学男子ラクロス部の誕生」

 

千葉大学男子ラクロス部の誕生    初代主将 大野剛

千葉大ラクロス部創設から25年。

 

今でも目を閉じると学生時代のラクロスへの熱い想いがよみがえります。

 

千葉大ラクロスを組織化することに全力投球した日々。

千葉大ラクロスは自分自身の大学生活4年間そのものでした。

 

皆さん、こんにちは。私は平成8年千葉大学卒業の大野です。

大学を卒業して地元へ帰郷、地方銀行に勤務しており、現在、高校生と中学生の2人の娘を持つ45歳です。

関係者の皆さま、創設25周年おめでとうございます。全くのゼロからスタートしたラクロス部が25年も続き、現在も現役世代が1部リーグで活躍する姿は大変嬉しく、誇りに感じています。

われわれ創設メンバーから始まり、多くのOB達のDNA「ラクロスへの魂」が脈々と繋がり、受け継がれていることに強い感動を覚えます。

 

今回、創設25周年という節目に筆をとらせて頂く貴重な機会を得ましたので、創設当時のことを私の進級年と重ねて回想していきます。

 

 

【大学4年間のトピックス】

平成4年(1992年) 大学1年  「千葉大ラクロス部創設」

平成5年(1993年) 大学2年  「チームの本格的始動」

平成6年(1994年) 大学3年  「関東学生連盟への正式加盟」

平成7年(1995年) 大学4年  「3部リーグでの戦い 入替え戦出場」

 

 

Ⅰ. 大学1年時 「千葉大ラクロス部創設」

 

私自身、雑誌等で「ラクロス」というスポーツの知識が既にあり、数年前からラクロス部を創設する大学が増加していた時期でした。確か、渋谷駅周辺でラクロス協会の普及イベントに出会い、「他の大学の選手も殆どが入学してから競技を開始している、誰でも日本代表になる可能性がある」など関係者の言葉に惹かれました。5月に日本代表の「国際親善試合」を観戦したことが決定打となって、我が千葉大でのラクロス部創設を決意したのです。早速、同じ学年であった佐藤カズ君、上田君、藤澤君、立石君、福田君を誘ってラクロスの防具一式を揃えました。これが「千葉大ラクロス部誕生」のきっかけです。しかし当時は、オーストラリア人留学生でラクロス経験のあるクレイグ氏から近くの公園でアドバイスを受け、腕立て、ダッシュなど基本動作が中心の正直、未だゆるい感じのスタートでした。

 

Ⅱ. 大学2年時 「チームの本格的始動」

 

この頃、徐々にチームらしく変化していきます。大きな要因は2つ。まず第一に淑徳大学/秋本君との出会いです。この出会いが千葉大ラクロスの歴史を大きく動かします。

同じ千葉市内の淑徳大学は先行してラクロス部が創設されており、同級生の秋本君に誘われ、経験豊富な上級生もいる淑徳大学の練習に参加させてもらいました。これを契機にラクロスというスポーツと本格的に向き合っていったのです。秋本君のその後の千葉大学との関わりは大学卒業後のヘッドコーチ就任等、この場では言い尽くせません。最近はなかなか顔を合わせられませんが、現在でも親友です。別のコラムで紹介があると思います。

そして第二に、新1年生の入部がチームとしての変化へ拍車をかけました。次世代の主将・飯嶋君はじめ6~7人の入部により、ラクロスのゲームが出来る様になりました。当時、新入生対象の全国地区合同合宿「フレシュマンキャンプ」に千葉大からは1、2年生全員が参加し、日本代表選手のコーチングなどを受け、徐々にステップアップしていきます。

 

Ⅲ. 大学3年時  「関東学生連盟への正式加盟」

 

3年目には更に新入生が7~8人入部することで遂に関東学生リーグへの参加を申請しました。しかし当時、部員数が揃っているだけでは簡単に学生リーグへ正式参加できず、「準加盟」団体として一年間、審査を受けることになりました。当時の正式加盟への審査基準は「ラクロス競技の普及活動」「学生連盟への関与状況」「チームとしての組織力」などと記憶しています。そのため、ラクロス協会が主催する様々な活動に自主的に全員が参加。審判免許資格なども私を含め多くの部員が取得したことを覚えています。並行して学生連盟幹部からのチーム練習視察や練習試合の開催など様々な審査を受け、都度一つ一つ皆の力でハードルを乗り越えていきました。当時も週4回程度の朝練習が主体でしたが、選手としての活動だけでなく、全員がラクロス協会、学生連盟のイベント協力や各種委員会出席などの活動を同時に担ってくれた成果もあり、無事、審査を通過し、正式に学生連盟へ加盟することができたのです。

組織化までの道程は、ゼロからのスタートであり想像以上に厳しかったため、正式加盟の連絡を受けた時はチーム全員が西千葉駅に集い、歓喜したことを覚えています。

現在は選手として日本代表も多数輩出、全日本選手権出場経験もある千葉大ですが、合わせて学生連盟委員長や日本代表マネージャー、代表通訳など多方面でも活躍する「礎」は、この準加盟時代の全員の活動だったのではないでしょうか。

個人的にも協会本部の広報部次長となり、当時部長の寺本香さんとラクロスマガジンの創刊を行ったことは印象深いです。また、国際親善試合で来日したNCAAディビジョン1のバックネル大学とのエキシビジョンマッチ(日本代表との試合前日のウォームアップ?)に、学生連盟選抜として千葉大から私を含め数人参加したことも良く覚えています。

 

Ⅳ. 大学4年時 「3部リーグでの戦い 入替え戦出場」

 

学生連盟へ正式加盟後は関西地区の大学と試合を行っていた「東西交流戦」や、「関東学生リーグ」に正式参加しました。いよいよ千葉大ラクロスの本当の意味での歴史がスタートです。他の大学との練習試合や夏合宿など数々の想い出があります。当時、多くの公式戦が行われていた葛西臨海球技場が我々の聖地でした。記念すべき公式戦初戦はこの聖地で白星を挙げることができました。3部リーグでの参加で勝利を重ね、最終的には2部との入れ替え戦へ出場できました。しかし、入れ替え戦で惜しくも敗れ、初出場での2部昇格は後輩達に夢を委ねることとなったのです。

今でも鮮明に記憶しているのは、入れ替え戦前に千葉大近くの銭湯に皆で行ったことです。みんな、覚えているかな?

 

「最後に」

千葉大の現在のユニフォームの基本カラーは創設当時とほぼ同様ですね。創設メンバーとして感慨深いです。NCAA強豪チームのネイビーラクロスのチームカラーを踏襲してデザインした記憶があります。

 

「 Lacrosse Makes Friends」の言葉の通り、様々な大学に友達ができたことも良い想い出です。当時は他大学のラクロスプレイヤーとのホームステイ、練習参加、イベント協力などがありました。今でもSNSでの繋がり、卒業後に思わぬ再会、ビジネス上での連携など様々な形で関係が継続している友人も数多くいます。

 

昔話をたくさんしましたが、現役世代の皆さんへOBそして社会人の先輩として一言申し上げます。

今の瞬間を一生懸命、全力で駆け抜けてください。学生時代の「全力」は本当に眩しいです。何かに本当に全身全霊を捧げることはきっとこれからの人生でも役に立ちます。やり切ることで、「ブレイクスルー=突破」した時の自信、達成感、充実感が社会人になっても全ての行動に繋がります。

そして仲間との出会い、信頼を大切にして下さい。きっと将来の財産になりますよ。

 

現役チームの今年のリーグ戦での大活躍、念願のFINAL4での勝利、そしてOB関係者の益々のご活躍を祈念しております。

 

Go ahead!

 

(追伸) 「おんせん県おおいた」へお越しの際は是非、声をかけて下さい。

「シンフロ」「湯~園地」で話題です。様々な観光、グルメをご案内させて頂きます。待っていますよ。

 

(平成29年6月 執筆)

 

No. 002 秋本 勇治「三部・二部・一部を経験した僕からみんなへ」

 

三部・二部・一部を経験した僕からみんなへ  秋本勇治

1992年から17年ほど千葉大学ラクロス部に関わることができました。

この時間が無かったら、僕の人生は全く違うものになったと思います。

 

92年の春、西千葉駅前でクロスを持っていた初代の上田君に声をかけて練習に飛び入りし、その後は大野君のアパートで食事会にも参加しました。

あの日の衝動的行動から全ては始まったかと思うと、人生とは不思議なものです。

 

94年の準加盟と東北遠征、95年の正式加盟とリーグ戦初参加、他大学の学生ながら見続けていたので、これも大事な想い出です。

95年のリーグ戦では同時に初参加した他の2校が全敗で終えたのに対し、千葉大学は2勝を挙げ入替戦に進みました。今思えば凄いことですね。

 

96年から千葉大学に名を連ねることになりましたが、押しかけコーチだったので当時のメンバーは迷惑だったと思います。

このときも出会いと同様、衝動的な行動でした。若いって怖いですね。

リーグ戦は順調に勝ち星を重ね入替戦に進出。

コーチをしたかったのは、今まで認められなかった僕の考えを実証したいという思いがあったので、何としても勝ちたかった。(自分本位で良くないコーチですね)

そして勝利し、1年で三部から二部へ。「俺にできないことはない!」くらいに思っていました。

 

が、97年、98年は早々と壁にぶち当たります。

一つ、二つは勝てるものの、上位校には歯が立ちません。

戦い方のレベルアップと個人技術の底上げ、これを両立すべく練習や勧誘を模索していました。思いつきの馬鹿な練習メニューを強要したこともあったし、受け売りの言葉を偉そうに喋っていたこともありました。

 

そして恐怖の99年。今まで一部・二部は8校2ブロック制だったのを、翌年から6校2ブロック制にすることになりました(今も続く形式は2000年からですね)。

計算すれば判りますが、二部は半分が三部へ降格することになります!

この年は16校を三ブロックに分けて戦う変則方式。迎えた最終戦は、互いにここまで2勝2敗で、負けた方は自動降格というものでした。

そして3Qを終えて2点リードされる劣勢。

でも、何故か落ち着いていたのを憶えています。

4Qが始まると連続得点、そして逆転。残り5分で2点リードし逃げ切りが頭によぎったとき、まさかの連続ファールで3マンダウン。

そして直後にボールを奪い、そのまま得点。試合の空気が一瞬、一瞬で変わる本当に濃密な時間でした。

この3マンダウンのときに申請したタイムアウト、僕のラクロス人生で最高のタイミングとプレー指示だったと自画自賛しておきます。(詳しく書くと、原稿用紙10枚にはなるので割愛)

 

この99年の最終戦で二部に残ったことが、2000年に大きく響きます。

先ずは夏のルネサンスカップ。

 

初めて予選を勝ち抜き、準決勝も勝利。決勝の下馬評は相手が絶対的優位で、消化試合のように思われていました。(おそらく被害妄想でしょう)

が、勝利し初のタイトル獲得。そして大会初の二部リーグ所属校の優勝でした。

何が変わったって、次の日から練習試合の申し込みが殺到!

それまで一部リーグ所属校と練習試合を組むのは難しかったので、「よーし、返り討ちにしてくれる」と調子に乗って三週連続で一部リーグ所属校と練習試合。

ここで勢いを増してリーグ戦に突入するつもりでした。

 

結果、三連敗。どの試合も完敗。ぐうの音も出ないとは、このことでした。

一部は甘くない・・と思いを新たにしたのが幸いだったかもです。ここで負けてなかったら勘違いしたまま開幕を迎えていたでしょう。

改心して臨んだリーグ戦は順調に勝ち星を重ね、全勝で入替戦へ。

相手も決まり、準備も万端。何度も試合展開を予想し、悪い状況を何パターンも考えて、それでも勝てる自信がありました。

 

そして入替戦前日、僕は一睡もできませんでした。

緊張で眠れないという人生で初めての体験。後に結婚相手となる人の両親に挨拶する前日も、披露宴前日も熟睡できた僕が眠れない。

そのまま始発電車で西千葉へ向かい、誰もいないグランドで小石を拾い、トンボで地面をならしていました。

試合が始まると、そこからは無我夢中。勝利の瞬間は本当に嬉しくて、嬉しくて、その気持ちを文章にするのは今でも難しいです。

どう書いてもしっくりこない。ここの文章は何度も書き直しましたが、上手く書けなかったです。50周年記念までには書けるよう、頑張ります。

 

日本一になる権利を手に入れ、01年からは夢にまで見た一部リーグ。僕は選手としても経験が無かったので、本当に楽しみでした。そして怖かった。

迎えた開幕戦、会場は葛西臨海球技場でした。これまで何度も通った場所なのに、駅からの距離が凄く遠く感じ、グランドへの階段を上りきると、見慣れた光景の色が違い、口に入ってくる空気に変な味を感じたのを憶えています。そのことを皆に話すと笑っていましたけど、僕は本気で言っていました。

試合が始まった瞬間は憶えています。終わった瞬間も憶えています。

勝ったのも憶えています。けど、途中経過を全く憶えていません。

どんなに思い返しても、一つのプレーも、タイムアウトの申請も思い出せません。

これが一部リーグでのスタートでした。

この年はファイナル4まで進むことができ、周囲から見れば初昇格一年目としては良い結果だったかもしれませんね。

 

でも、ここで僕は皆に謝らなくてはいけません。

一部リーグに上がるまでは、自分の中でハッキリとしたイメージがありました。

「こうすれば勝てる」「こうすれば一部に上がれる」という、絶対的な自信もありました。

でも、一部に上がったら、どうすれば良いか判らなかった。

日本一になると公言していたものの、その根拠になるものが無かった。

自分の感覚・能力よりも、現実が追い越して行ってしまったのです。

当時はそれでも「俺なら何とかなる」と思い込んでいましたが、これは過信であり妄想でしかなかった。

 

ここでコーチを交代し、勝てるコーチを呼んでくるべきだった。

僕は育成・運営面に集中し、勝つことについては改めて研鑽を積むべき時期でした。

ここで決断できなかったことが、翌年以降に毎年勝ち星を一つ、二つ失う原因だったと思います。

そうしていれば02年、03年もファイナル4に進め、その経験の蓄積で04年は優勝できた可能性がもう少し上がったはずです。

05年、06年は降格入替戦に回ることも無かったはずです。

当時のメンバーには、本当に申し訳ないことをしてしまった。

 

07年以降は二部リーグで戦うことになりました。

そして僕はこの頃、仕事で札幌、東京、神戸と転勤を繰り返すことになり、チームを離れることになりました。

二部リーグに降格したことを当時のメンバーには負い目に感じて欲しくはないです。

けど、僕はもっと何かできたはずなのに、できなかった。

 

今思えば、予想を超えた現実から逃げてしまった弱い自分がいたのです。

当時の僕は自分を客観視できるほど大人になれてなく、とにかく勝ちに飢えていたときの若さも失っていたようにも思います。

これは自分を振り返るとき、忘れてはいけないことです。

 

でも、全ての時間を通して、大変だったことや悩んだことはあるけど、嫌なことなんて一つもなかったよ。人に嫌な思いをさせてしまったことはあるかもしれませんが・・

 

良い思い出でばかりです。

久々に卒業生に会うと本当に楽しいし、大人になった皆に感動しています。

最近は僕がチームを離れた後に入学した人たちとも交流でき、刺激を貰っています。

 

創部から25年、いろいろ変わったことはあるかもしれません。

先日、数年ぶりに西千葉のグランドを訪問しました。人工芝になり、周囲は高いネットで囲まれ、設備は凄く変わっていました。

でも不思議と何の違和感もなく、心地よい空気を感じました。

そのとき、僕の中にある千葉大学ラクロス部は途切れることなく続いているのだと思いました。

 

久しくグランドに行ってない人、リーグ戦を観てない人、是非足を運んでみてください。

OB会や同期会、行ってみてください。

学生時代に勝った方が多い人も、負けた方が多い人も、行ってみてください。

変わらないもの、新しいもの、いろんなことが見えるはずです。

学生時代には気付かなかったことに、気付けるはずです。

 

これから先、千葉大学ラクロス部は日本一になることも、三部リーグに所属することもあるかもしれません。

でも、どんなときも、僕の皆を応援する気持ちは変わらないです。

 

創部から25年、僕に大切なものをいっぱい与えてくれて、ありがとう。

 

(2017.06 執筆)

創部25周年記念 OB・OG Special Column

No. 001 01期 大野    剛  「千葉大学男子ラクロス部の誕生」

No. 002             秋本 勇治    「三部・二部・一部を経験した僕からみんなへ」

No. 003 14期 吉野 悟  「OB会事務局長として、そしてこれからのOB会へ」

No. 004 19期 岩井翔太郎 「OB会 新事務局長 ご挨拶」

No. 005 Coming soon!